電気スタンドの明りを頼りに本を読み進めて、どれくらいの時間が経ったのだろうか。ほんの数分だけと思っていたのが、腕の痺れ具合からして相当な時間が経過していたようだ。
マリーはベッドに横になって両肘をついた体制から、身体を反転させて仰向けになる。両手を伸ばして本を天井へ。そして一息ついたところで、両手を下ろすと共に本を閉じた。
我慢することなく大きな欠伸をしてから時計に目を向けたが、案の定、1時間以上も読書に耽っていたらしい。すでに午前2時を回っていた。睡眠不足は肌に悪いし、授業中に生徒の前で欠伸をするのはよろしくない。
中途半端な場面で止まってしまった物語を、あと数ページだけめくりたい衝動に駆られるが、そうなると最後まで読んでしまう徹夜コースになると予想できるし、ゆるゆると眠気が襲ってきたせいで脳がストップをかけている。ゆるゆるどころか、電気を消して、枕を抱きしめ、目を閉じれば、きっと数秒で夢の中へ飛んでいけるであろうところまで、一気にレベルアップしてきた。本は開かれることなくサイドテーブルに置かれ、欠伸をかみしめながらスタンドの電気を消そうと、手を伸ばした……その時だ、マリーの睡眠を妨げるように、ゆっくりと部屋の扉が開いたのは。
「……シュタイン?」
広いくせに照明が極端に少ないツギハギ研究所の廊下に電気はない。吸いこまれそうなほど暗い廊下を背に立ち尽くしているのが、言わずともシュタインだと教えてくれるのは、窓から差し込む月明かりを頼りにシルエットと気配を判断してだ。どのみちこの研究所の住民はシュタインとマリーの2人だけなので、言わずとも分かることだが。
部屋に鍵はついているものの、必要性を感じないのでかけることはない。着替え中に突然入って来たとしても、キャーなんて色気のある声をあげることはなく、無言で顔面に椅子を投げつけてやるぐらいの間柄である。しかし常々思うのだが、ノックをするのは礼儀ではないだろうか。せめて声をかけるとか。いくらこの研究所の主であり、マリーが居候している立場だとしても、これでも立派なレディーなのだから。だったら鍵かければいいんじゃ……?と言うのはなしだ。
元よりシュタインがマリーの部屋に来ること自体滅多にあることではないし、警戒したところで意味がない。マリーがどんなに警戒網を張り巡らせたところで、目的を持ったシュタインから逃げることはまず不可能だと思われるからだ。
それにしても、こんな時間に訪ねて来るとは思ってもいなかった。寝ているであろうマリーを起こす覚悟までして来たのだろうか。マリーの寝起きが最悪なことを承知で来たのだろうか。だとしたら、よほどの急用だ。むしろ緊急事態だ。ならば、マリーも飛び起きるべきなのだろうが、シュタインにとっての緊急事態……どうにも嫌な予感しかしない。
「なに?どうしたの?」
「寝てるかと思った……」
ならどうして来る。なにをするつもりだった。
もしかして、いいアイディアが浮かんだからちょっと実験させて欲しいとか、本気でなにかやらかそうとしたとか。だから逆に眠った状態のほうが好都合だから、この時間に来たとか。なにせスピリットの前例もあるので、十分に有りうる。
マリーはとりあえずベッドから起き上がると、なぜか部屋に入ってこないシュタインに近づいた。
実験代にされるのはご免なので、出来れば早急にお引き取り願いたいのだが、理由は聞いておかなくては。このまま見逃しては明日からの安眠は約束されない。起きたら見知らぬ傷が身体にあるなんて、考えただけでもぞっとする。
「それで、用件はなに?急用なんでしょ?」
「……」
「……?どうしたのよ、黙って……」
どうやら雰囲気からして物騒なことを考えているわけではないようだが、来たからにはなにか用件があるはずだ。余計なことは必要ないほどずけずけと言うくせに、黙りこんでしまった。
そう言えば過去にマリーが失恋したときも、へらへらとお得意の笑顔で思ってもいない慰めの言葉を掛けられ、イラっときた覚えがある。本当に余計なことは言うくせに。
暗くて表情も見えないので、マリーは壁にあるスイッチを手探りで見つけ、電気をつけた。
「何かあったの?黙ってちゃわからな……い……!?」
明るさに慣れていない目を細めて、自分よりも背の高いシュタインを見上げる。シュタインが小さいマリーを見下ろす。距離が縮み表情がやっと見えたところで、マリーは一気に覚醒した。
部屋がやたら眩しく感じるので見間違いかと思った。眠気も吹き飛んだが、時間が時間なだけに目の錯覚かとも思った。しかし、まじまじと見たその顔は間違いではない。それでも信じられない。言いかけたままの口は馬鹿みたいに開いたままだろう。無意識に一歩下がって、大きく見開いた目を何度か瞬きして、まだ信じられなくてしっかりと目を開く。
ついで恐怖が襲った。目の前にいるこいつは、果たして本人なのだろうか。頭にネジをつける人間なんて他に居る訳もないのだが、本人かと疑ってしまう。 マリーをからかう為にわざとやっているにしても、失礼だが気持ち悪い……いや、少し可愛いかもしれない……なんにしろ、ふざけた様子でもないので、おかげで尚更混乱する。
シュタインは頭が良い。能力もある。最強の職人と言われる実力を持ち、実際どんな武器でも使いこなす死武専で最も長けた職人だ。それでも稀に異常な行動をとることもあり、何を考えているのかは――なんとなく感じることはあるものの――まったく分からない。学生時代からの付き合いで、現在はパートナーとして共に暮らしているにも関わらずにだ。しかもここだけの話し(と思っているのはマリーだけで、仲間はほぼ全員が知っているが)マリーの初恋の人なのだ。
そのシュタインが夜中にやってきて、理由も言わずに無表情でぼーっと突っ立ったまま。変な実験でも考えてるのかと疑ってしまったが、どうやらそれは違うようで……何がどうなって、こんなことになったのかは知らないが、シュタインの頬には一筋の涙の跡。
シュタインが泣いているのだ。
「……ど、どうしたのよ!?」
「なにが?」
「なにがって……こっちが聞きたいわよ!なんで泣いてるの!?玉ねぎでも切った!?」
他の人が痛みで涙を流すことがあっても、シュタインにとっての痛みは違う。逆に笑うような壊れたタイプだ。単純に悲しいことがあって泣く……なんて最もらしい理由はまず却下した。そうなると、玉ねぎに含まれる成分によって、強制的に涙が出てきてしまったとしか、シュタインの泣く理由が思いつかなかった。
もちろん、この状況で玉ねぎなんて馬鹿らしい理由でないことは分かっているので、鼻にティッシュを詰めると涙も防げるらしいわよ?なんて余計な助言はしないでおいた。
「泣いてるって?」
「そのまんまよ。あなたが泣いてるの」
「……まさか」
「こっちの台詞よ」
「……きっと明日は、デス・シティーが鬼神に襲撃されるかもね」
「せいぜい大雪が降る程度にしてちょうだい。……ちょっとこっち来て」
やたら現実味のある恐ろしいことを言いながら、不思議そうに首をかしげるシュタインの手を引いて、ベッドに座らせた。
どうやら自覚はしていないらしいが、泣いている、というのは正確な表現ではなかった。まだ乾ききっていない涙の跡に、少し赤い目。泣いていた、と言うのが正しい。やはりまだ信じられないが、シュタインが涙を流したという事実。念のために身体に異常がないかざっと見たが、いつも通りだ。
パジャマ姿のまま腰に手をあてて、今度は見下ろす立場となったマリーは、溜息と共に尋ねた。
「で、なにがあって、あなたが泣いてるの?」
「さぁ?」
「さぁって……だったら、どうしてここに来たのよ?」
「夢遊病かな……?」
「あなたは異常だけど、病気じゃないでしょ。……ねぇ、怖い夢でもみた?」
口調は、まるで子供に問いかけるように和らいでいた。 怪物と表現してもおかしくないぐらい危険な奴なのに、今のシュタインがなぜかとても幼く見えたからだ。まるで小さな子供のように。怖い夢を見て、言い知れぬ恐怖に駆られ、母親に助けを求めて来たかのように。
母性本能なのか、パートナーとしての愛情か、それとも違う種類のそれか……どんな感情での行動かは自分では決めかねるが、涙の理由を出来るだけ取り除いてあげたいと思うのは、当然だ。
そっと手を伸ばしてシュタインの眼鏡を外す。相変わらず無表情だったが、構うことなくその頬に手を伸ばした。生温い涙の跡を拭う。拭いながらも、本来ならばこういうシチュエーションこそ、マリーが失恋で落ち込んだときにシュタインがしてもおかしくない行動だと思う。それをへらへら笑い飛ばしやがって……なんて文句も、頬に当てていた手が大きな掌に包みこまれたせいで、吹き飛んだ。
「な、なによ……」
「……そうかもしれない」
「え……?」
「怖い夢を見たのかもしれない」
上目遣いでマリーを見上げる瞳の幼いこと。思わず息をのんでしまった。
「何を見たのか覚えてないけど、ここに来たのはマリーがいるかちゃんと確認したかったのかもしれない」
「……」
「……ちゃんと、いるね」
マリーの掌に頬を摺り寄せて安堵するように息を吐くシュタインを見て、なんて言えばいいのだろうか。
マリーは未知なる生物と初対面したかのような顔をしていた。心臓がばくばく鳴っている。地球外生物と対面すれば誰だってそうなるが、いくら人間離れした中身だとしても、身体的にシュタインは人間だ。
だから胸の高鳴りは、恥ずかしいとか嬉しいとか、好きな人に触れられて感じる青春真っただ中の、それだ。
握られた掌から体温が上昇しているのが分かる。直接頬に触れているシュタインにも気付かれてしまっているかもしれない。戦闘時は武器として触れられているのだから、今更動揺することはないはずなのに、見たことのない、らしからぬその態度に、驚くほど動揺している。
これが本当にあのシュタイン? 誰にでも不安定な時はある。それが意外な面を見せてくれただけで、目の前の男は変態に変わりはないのだ。だからドキドキする必要がない……はずなのだが。
「あの、手……」
「……待って」
落ち着いてゆっくりと手を引こうとしたが、放してくれない。力任せに振り払うことは簡単に出来るはずなのに、マリーはしなかった。決して、嫌なわけではないのだ。
生きているものは夢を見る。楽しい夢を見て、目覚めた時に現実に絶望したり。悲しい夢を見て、目覚めて安堵のため息をついたり。
シュタインの見た夢とはどんなものなのだろうか。起きているときですら考えが読めないのだから、マリーは想像すらできなかった。狂気を含み、惨く、辛く、怖いものかもしれない。それでも、所詮は夢。現実ではないと分かり切っているのだから、シュタインにとっては、なんの問題にもならないと思っていた。何が引き金で崩れてしまうか分からない情緒不安定な状態なのに、シュタインには恐怖という感情がほぼ無いに等しいものだと勝手に思い込んでいた。
これは嬉しい発見だ。
もっと知る必要がある。パートナーという肩書で安心してはいけない。鍵をかけてしまっては何も分からない。扉を開けて、もっと互いに知っていかなくては。少しずつていいから心を見せて欲しい。それまでは狂気に飲み込まれないように引きとめておくのが、マリーの役目だ。
マリーは肩の力を抜いて、シュタインを見詰めた。
「それで、私がいるって確認とれたわけだけど……どうするの?」
「……」
「戻る気はないわけね。……だったら、今日は一緒に寝ましょ?」

【夢魔からの開閉キー/シュタインとマリー】