「覚えてないの?」
なんで君がそんなことを聞くの?という意味合いが含まれた言葉に、押し黙ってしまった。
この1DKアパートの居住者である彼女は、眼帯をつけていない右目を睨みつけるような形で、じろりと向けていた。瞳に浮かぶのは、混乱でもあり、戸惑いでもある。現在の状況からすれば警戒するに越したことはない。
対して招かざる客である彼は、睨みつけられた視線なんて痛くも痒くもないようで、どこか気の抜けた表情のまま、眼鏡のレンズ越しに受け止めていた。
決して広いとは言えない部屋。折りたたみ式のローテーブルを挟んで床に座る男女は、見つめ合っただけで相手の意思をくみ取るような間柄では無い。言葉を交わさなければ相手の思うことは分からないし、聞いたところで理解できない可能性だって十分にある。
だから、とにかく話をしなければならないと、彼女は思うのだ。むしろ聞きたいことだらけ。
くつろいでソファーに座っていたことも、勝手に珈琲を飲んでいたことも、テレビをつまらなそうに見ていたことも。あたかも自室のように過ごしているのはなぜかと。そもそも、根本的な疑問についてはずっと考えていたが、クレーム処理はまわされるは、書類ミスはするはで、仕事に集中出来なかったせいで散々な一日であったにも関わらず、解決されなかった。
なぜこんなことになっているのか。
なぜの原因が知りたいのに、彼に聞いてはいけない気がするのはなぜだろうか。彼に遠慮しているわけではなく、真実が明かされることで自分自身が大ダメージを受けるような気がしてならないのだ。
そして、なぜ?なぜ?だらけのオンパレードに降参して、彼女は……マリー・ミョルニルは、思い切って投げかけた――『なんでここにいるの?』――と。
その答えが冒頭のものだ。答えというよりも質問に質問を返された一番嫌なケースで、なおかつ、大きな不安を植え付け……なんて答えればいいのかと悩んでいるのである。
覚えていないの?と聞かれた。それは昨夜から今朝までの間を指しているのは分かる。
よし、思い返してみよう。
昨夜は、高校時代の同窓会があった。都内にあるホテルが会場で、電車で向かった。久々に会う友人たちとご飯を食べて帰ってきた。以上。……さすがにこれだけでは駄目だ。もう少し詳細を思いださなければ。
午後の予定からおさらいしてみる。午後は梓と約束をしていて、駅前でお茶をした。月に1回は会って、ちょっとした世間話なんてしている。夜のことを考えてケーキは我慢して紅茶だけ注文した。お茶をした後は、一度自宅に戻った。それから着替えてお化粧も直して、同窓会へと出かけた。電車を乗り継いで1時間ほどの距離だ。会場では久々に会う友人と懐かしい昔話をしながら美味しい料理をいただいた。
それからどれだけ時間が経っていたのか分からないが――ここからが重要だ――彼の姿を見つけたのだ。まさか再び会うとは思ってもいなかった相手、今まさにマリーを悩ませている人物、フランケン・シュタイン。
久しぶり〜なんて言いながら話をして、それから……それから、どうしたのだろう?まだ記憶に新しいはずなのに、思い出せない。重要なことが何一つ。よくある3日前の夕食のメニューが思い出せないのとは、また違ったものだ。ぼんやりとも思い出せない。思い出せないというよりも、覚えていない。記憶にない。
「何か思いだした?」
シュタインがさほど興味なさそうに聞いてきた。
「……あなたと会って、それからしばらく話をして、帰ってきた」
「どうやって帰ってきたの?」
「で、電車……?」
言われて分かった。……どうやら、記憶の一部が抜け落ちているようだ。
「まぁ、だいぶお酒飲んでたしね。でもしっかりとした足取りだったし、話もちゃんとしてたよ。覚えてない?」
立食形式のバイキングは和洋折衷のメニューが並び、お酒の種類も豊富でかなりの量を飲んだのは覚えているが、今までお酒が原因で記憶を無くすなんて一度もなかった。あまり自覚はないが、お酒には強い体質らしい。
だから自分でも信じられない。信じられなくとも、なにも覚えていないという事実がある。そして目の前にシュタインがいるという事実があり、その理由もマリーが覚えていない記憶の一部に含まれているのだろう。
シュタインとマリーの関係は、小学校から高校まで同じ学校だった同級生だ。さすがにそれだけ付き合いが長ければ、性格だって見えてくる。シュタインの癖のある性格もマリーは把握していたし、友人の中でも親しいほうだった。それに、これは誰にも秘密なのだが、実はマリーの初恋がシュタインだったり……。昔の話だが。
高校卒業後は違う大学へ行き、一切連絡をとっていなかった。昨日は約10年ぶりに再開となる。
そんなシュタインが今朝、マリーのベッドに寝ていた。当然のように隣に居て、恐ろしいことに二人は何も身につけていなくて、身体のあちこちになにか跡が残っていて……なんて脚色したところで意味はないので正直に言うが、目覚めたマリーは床に転がされていたのだ。なぜかシュタインがベッドをちゃっかりと使っているという、こいつふざけんな状態で。もちろん2人とも服はちゃんと着ていた。
本当ならば、その場で問い詰めるなり追い出すなりしたかったのだが、すでに時計は6時半を指しており、出勤まで時間がなかったのだ。とりあえずシュタインを叩き起こしてから会社へ行き、さんざんな一日になったというわけだ。
「……もしかしたら、お酒に酔ってた可能性もあるかもしれない。なんか腑に落ちないけど、確かに覚えてないのは事実だし。だからちゃんと説明してもらえる?どうしてあなたがここにいるの?」
可能性としては、酔っぱらっていたらしいマリーを心配して送ってくれたとか。夜も遅い時間で終電が無く、帰るに帰れなくなってしまい、仕方がなく泊っていたとか。送ってくれた人を床に寝かすわけにもいかないので、ベッドを提供したとか。苦しい可能性だが、他に思いつかない。
しかしシュタインの言葉はまったくの見当違いだった。
「君が"ここに住めばいいじゃない"って言ったから」
「……え?なんて?」
「マリーが"ここに住めばいいじゃない"って言ったから」
「……」
耳を疑った。まさか、そんなこと言うわけが……無い、とは断言できない。悲しいことに、記憶がないから。
家に戻って来たことすら覚えていないのに、何を話したかなんて当然記憶にはまったく無いわけで。
もしかして、とんでもないことを言ってしまったのでは……。
血の気が引いていくマリーにシュタインは無残にも、あっさりと頷いた。
「"行くとこないなら、私のところに来なさいよ!"って、ぐいぐい引っ張られて、ここにいる」
やってしまった。大変なことになってしまった。
「ね、ねぇ。きっと昨日の私はお酒が入ってて酔ってたのよ。それで変なことを言っちゃったのかもしれない。さすがにあなたと一緒に住むっていうのは……」
恋人でもあるまいし、約10年ぶりにあった友人といきなり同棲だなんて。まさかシュタインだって本気にしているわけではないだろうと思いたい。
「実はお財布落としちゃって、帰るに帰れない状況なんだ」
「な、なんだ。そうだったの?」
シュタインには悪いがほっと溜息が出た。財布が無くて帰れないからここに居ただけだったのか。それならそうと言ってくれればいいのに。電車賃ぐらい貸して……
「あと、家がないから、帰るに帰れない状況なんだ」
「……」
……貸したところで、帰る場所がないのなら無意味だ。しかし、それはおかしいだろ。昨日まで一体どこに住んでいたと言うのだ。
さすがに疑わしい発言に、マリーは眉をしかめる。
「色々あってね。今までお世話になっていた先輩の家を追い出されちゃって。そう言ったら君が……」
なるほど。謎は解けた。とても簡単なことだ。つまりは、シュタインに帰るところが無いという話を聞いて、一緒に住めばいいじゃない!とマリーが言った。そして、聞く限りだと結構強引にここまで連れてきた。
やっと状況はつかんだが、はいそうですかと頷けるはずもない。このまま一緒に住むなんて常識的に考えられないだろう。それにシュタインの言うことをすべて鵜呑みにするわけにもいかない。嘘をついているとは言わないが、真実だとも言い切れない。あまりにも突拍子もない話をしてしまったらしいマリーは、自分自身の発言をいまだに信じられないでいるのだから。
「でも、君の言うことはもっともだと思うよ。覚えてないのを信じろというのは無理があるだろうし」
あっさりと言うシュタインはマリーを責めているものではなくて、逆にフォローしてくれる。それが申し訳ない。
どうして何も覚えていないのだろう。何をどうやって話したのかすら覚えていないのが、もどかしくて仕方がない。
一緒に住もうと言ったらしい。強引に連れてきてしまったらしい。覚えていないからと追い出せるのか。
財布も落として、帰る家もないという友人を追い出せるのか。……正直なところ、どうすればいいのかまったく分からない。
「……ねぇ、私、どうしたらいいと思う?」
「……さぁ?」
縋るような瞳で訴えてみたものの、シュタインは肩をすくめただけだった。
【パロ計画 ちょい現代風味/シュタインとマリー】