今日はなんの日だろう。特別なことなんて何もない。ただきっと後悔するだろう。
昨日まではズレたままネジは動いていた。明日からはズレたネジは動かない。
そして今日がその境目だ。



「こんなものかな」
小さな旅行鞄を一つ持った彼女がリビングに入ってきた。
オセアニア担当だった彼女はデスサイズスとして死武専に呼び戻されてから、ずっとツギハギ研究所で生活をしていた。部屋はいくらでも余っているし、なにがどうこうなる関係でもないので、追い出す理由もない。
その時期はパートナーとして組んでいたせいか、彼女との生活は多少の不便があったものの、苦痛を強いるようなものではなくて、楽しかった。
部屋の雰囲気を明るくしようと花を飾ってみたり(彼女の世話が下手なせいか、部屋の空気が悪いのかすぐに枯れてしまったけれど)、ビーカーで珈琲を飲むのを禁止したり(もともと珈琲を飲む習慣はあまりなかったけれど)、他にも無機質な空間を少しは一般的にしようと努力してくれていた。
そんな彼女が、今日、この研究所を出ていく。
枯れた花を前に、原因を探って首をかしげている彼女を見ているのは面白かったのに。
美味しい珈琲を入れてくれて、隣で飲んでいる彼女が当たり前になってしまったのに。

「荷物それだけ?」
「うん。なんか案外少なかったわ」
棚に置いてある花のない花瓶。二つの珈琲カップ。他にもソファーに置いてある柔らかいクッションや、壁にかけてある風景写真など……
全て彼女が買ってきたもの。それらは全てここに残されていく。
「と言っても、結構ここに残してるのよ。ごめんね、そこまで手がまわらなくて。申し訳ないけど処分してくれる?」
「……分かった」
難しいことではない。ただゴミ箱に放り投げればいい。
そんな簡単なことすら、できる自信はないが。
「私が使ったものが残ってるなんて、彼女からしたら嫌な気分になるからね。ごめんね?いろいろなことが急に決まってバタバタしちゃって」
「それは承知してるから」
本当にいろいろなことが急に決まった。だから仕方がない。
申し訳なさそうに言う彼女は鞄を床に置いて、隣に座った。ソファーに並んで座るのは久しぶりだった。
「なんか、こうやってシュタインと話すのがものすごく久しぶりなのに、これが最後になるなんてね」
「そうだね」
「最近なかなか話せなかったもの。私も、あなたも、ね……」


シュタインに恋人ができた。
もちろん彼女のことではなくて、違うコだ。
無性に苛立っていてアルコールを求めて立ち寄ったバーで、お酒に酔ったコが近づいてきた。苛立っていたから、誘われるままに抱いた。ただ、それだけだ。初めてのことではない。何度も似たようなことはしてきたが、今回はいつの間にか恋人と称される関係にされていた。
あのコが言いふらしているのだ。付き合っているのだと、恋人同士になったのだと。
行く先々で言えばすぐに噂となって広がる。そしてシュタインには恋人ができた。
あのコは美人だと思う。いわゆる身体の相性も良かったのだと思う。でも、それだけだ。たった、それだけ。
愛情の本質を知らぬまま、なんとも想わないコが恋人だなんて、滑稽な話だ。滑稽で最低な男だ。

この噂を聞いたスピリットは今でも納得がいかないと文句を言っている。シュタインをよく知る人たちは噂なんて信じていないようだ。実際、恋人だなんて思っていない。あのコは一緒にいるのには居心地が良くないのだ。
なのに彼女が、今日、この研究所を出ていく。
シュタインは真相を確かめに来た彼女に否定をしなかったのだ。肯定もしなければ否定もしない。
研究所に住むつもりなのだろうあのコが、彼女に研究所から出て行けと罵るように言っていたのも知っている。
それでもシュタインは何も言わなかった。

「あ、彼女で実験とかしちゃダメよ?」
「大丈夫。そんなことしないから」
「ちょっと心配だわ」
「大丈夫。本当になにもしないから」
まるで子供を心配する母親のようだった。
でも、無用な心配だ。あのコに興味も関心もないのだから、何かしようにも出来ない。
「あんまりひどいことすると捨てられちゃうわよ。気をつけなさい。女は嫉妬深いのよ」
「君を見てればよく分かる」
「失礼ね!まったくもう!」
からかってみれば彼女は面白いほどに、いつも応えてくれる。
だからいつも苛めたくなってしまった。
「もう、最後の最後まで、私をからかって!……ふぅ」
怒っていた彼女が一息置いて、真面目な表情でシュタインの顔を見た。
「最後だから、ちゃんと言わせて。今までありがとう」
「どういたしまして」
「シュタインはきっと面倒だと思っていただろうけど、私はここでの生活が本当に楽しかったわ。久しぶりに話もたくさんできたし、一緒にいられたし」
「うん」
「だから、本当に……ありがとう」
「……」

そっと重ねられた彼女の手を握り返した衝動に駆られる。
じっとこちらを見つめる彼女の肩を抱きしめたい衝動に駆られる。
そして……まさか自分がこんなことを思うなんて夢にも思っていなかったが、ここに居て欲しいと、傍に居て欲しいと、奥底から懇願が出てくる。

今からでも間に合う。
このまま彼女が出て行ってしまえば、きっとここには二度と戻ってこないだろう。だから本当のことを言わなくては。出て行ってしまう前に言わなくては。
あれはただの噂だから君が出ていく必要なんてないんだと言って、肩を抱き寄せればいい。悪い冗談だったと言って、怒った彼女に許しを請うために優しい口づけをすればいい。
抱きしめて、離さないで、ずっと腕の中に、彼女をずっと……

頭の中でネジがぐるぐると回転して、軋んで、思考がぐちゃぐちゃになって、結局は言葉一つ出てこなかった。
そして、一瞬強く握られた手の温もりが消えた。
「鉢合わせても困るし、そろそろ行くわね。元気で」
立ち上がって鞄を持つ彼女。隣にはまだ温もりがある。
少しずつ遠ざかる背中。重ねられていた手にも温もりがある。
ドアノブに手を伸ばす姿。温もりを求めて自分の手を握り締める。
伝えたいことがあるのに、どうしてか言葉が出てこない。
最後に振り返った彼女は ――ありがとう。さよなら―― とても綺麗で、でも、泣きそうな笑顔だった。


彼女の姿が視界から消えて、足音も聞こえなくなって、温もりも消え失せて。
なのに、脳裏には彼女の最後の笑顔がしっかりと浮かんで。
「あぁ……マリー……」
失って初めて分かる大切なものが彼女だと分かっていたくせに、失った。

【失くす時失くした時/シュタインとマリー】続く